開業医だった夫と3年前に死別した大倉洋子さん(仮名/77歳)。ひとりで悠々自適な第二の人生を楽しんでいましたが、背中の圧迫骨折を患ってから自由が利かなくなり、息子のお嫁さんが選んでくれたハイクラスな老人ホームに入居しました。素晴らしい場所なのですが、最近はふさぎ込んでいる大倉さん。いったい何があったのでしょうか。

周囲に羨ましがられる素敵なお嫁さん
夫が残したクリニックは一人息子が引継ぎ順調、医師免許を持つお嫁さんは息子を支えながらも大倉さんを気遣い、週に一度は顔を見せてくれる優しい女性です。観劇やランチに付き合ってくれますし、神社や仏閣を訪ねる旅が趣味の大倉さんのために、素敵なツアーを見つけてきて予約してくれることもあります。友人からは「良いお嫁さんが来てくれて幸せね」と羨ましがられ、大倉さんも鼻高々でした。
幸せな日々を過ごしていた大倉さんでしたが、ある時期からベッドで寝がえりを打つたび、背中に強烈な痛みを感じるようになりました。息が苦しくなることもあります。症状が長引くので整形外科を受診すると、脊椎の圧迫骨折と診断されてしまいました。
脊椎の圧迫骨折でひとり暮らしが難しくなった
お嫁さんは息子以上に心配してくれて、友人の医師から情報を集めて来てくれました。放置しておくと腰が曲がったり、寝たきりになったりする可能性もあるそうで、最新式の手術を勧められ、大倉さんは手術に踏み切りました。
手術は成功しましたが、数週間の入院生活で大倉さんの筋力はかなり衰えてしまいました。気持ちも萎え、観劇やランチ、ましてや旅行など考えられないメンタルです。そんな大倉さんの様子に、お嫁さんは同居を提案してきました。大倉さんが住む自宅を二世帯住宅に建て直し、介護はお嫁さんがすると言うのです。
子世帯との同居は自身の経験から避けたい
嬉しい提案でしたが、以前から介護が必要になったら老人ホームに入居しようと大倉さんは決めていました。自分自身が、義理の両親の面倒を10年近くみた経験があったからです。義理の父も母も穏やかで優しい性格でしたが、やはり他人です。気を遣うことが多く、自分はお金で解決できる方法で老後の生活を決めようと思っていたのです。
何度も説得してくれたお嫁さんには申し訳なかったのですが、「お義母様がそこまでおっしゃるなら」と納得してくれました。そして、今度は老人ホーム選びに奔走してくれることに。場所は息子たちの家から車で30分以内、自宅のような住空間で、館内に美容院やエステ、温泉が完備されているところを探すと張り切っています。一生懸命に考えてくれるお嫁さんには感謝しかありませんでした。
ハイクラスな老人ホームに入居。素晴らしい場所だった
お嫁さんが選んだ3つの老人ホームへ一緒に見学に行き、試食会やイベントに参加し「ここなら、今まで変わらない生活ができそう」と感じるところを見つけることができました。転居の日には「月に一度は遊びに来ます」「不満があったらいつでも言ってくださいね」と言いながら、お嫁さんは何度も大倉さんをハグしてくれました。息子は横でニコニコしているだけ。「この人が娘になってくれて幸せ」と、改めて感じた大倉さんでした。
入居してみると、住み心地は抜群でした。車いすの生活になっても動線が確保できる広々した居室。ベランダからは地元の海が見下ろせます。共有施設も充実していて、蔵書の豊富な図書室や本格的なシアタールーム、温泉にプール、カラオケにビリヤード場、トレーニングルームとすべて網羅するのには相当な日数がかかりそうです。美容室とエステルームは、高級なチェーンの店舗からプロが来訪して施術してくれます。
ホーム内で孤立を深めていった理由
充実した日々を送れると期待した大倉さんでしたが、1ヵ月ほどして孤独を感じるようになりました。実はこの施設、官僚と法曹関係の仕事をしていた人と奥様が入居者に多く、その人たちが中心にグループが形成されていたのです。話しかけられると最初に「ご主人は何をなさっていらしたの?」と聞かれます。「クリニックを……」と言うと、「そう、街のお医者様ね」と言葉を残し、「では、また」と去っていきます。
入居者と見えない壁を感じた大倉さん。何度か同じような会話を繰り返したのち、だんだんと人と話すことが怖くなり、自室に閉じこもりがちになりました。お嫁さんが遊びに来てくれても、ラウンジでは話をせず、自室まで来てもらっていました。しかし、「お義母様、いかがですか?」と尋ねてくれるお嫁さんに本心は言えず、「お陰様で幸せよ」と答えてしまいます。
本音の言えない高齢者は意外と多い
お金には余裕があるし、別の老人ホームに移りたい気持ちでいっぱいですが、一生懸命考えて動いてくれたお嫁さんの気持ちを無下にできないと、ひたすら我慢する日々の大倉さん。しかし、眠れず、食欲もめっきりなくなってしまい見る見る老けてしまいました。
大倉さんの抑うつ状態に気づいた老人ホームの職員からお嫁さんに連絡が行き、ようやく大倉さんはお嫁さんに自分の気持ちを吐露しました。「我慢させてごめんなさい」とお嫁さんが泣き崩れるなか、大倉さん自身も涙が止まりません。その後、精神科を受診すると、今のままでは体がまいってしまうということで、一度入院をして栄養状態を戻すことになりました。
家族に気を遣い過ぎて本音を言えない高齢者は意外に多いものです。本人が老人ホームに満足しているかどうか、腹を割って話せるように導くのも家族の役割と言えるでしょう。